なぜ日本語は受身を多用するのか
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昨日の午後、急に天気が崩れて、30分ほど台風のような強い風が吹き荒れました。幸い授業中で屋内にいたのですが、凄まじい風と雨を見て、「次の授業先に行けるんやろか…」と少し不安になりました。でも、すぐに収まって、その後は晴れ間が広がりました。
さて、「これから時々日本語に対する自分なりの考えなどを紹介していきたい」と、前回の記事に書きましたが、私が特に関心を持つ日本語の特徴は、話者の感情表現に重きを置いている点です。これが関係している文法はいろいろありますが、最も端的に表れているものの一つに、「受身の多用」があります。
たとえば日本語では、「先生に叱られた」とか「上司に褒められた」とか言いますよね。日本人にはごく自然な表現ですが、アルメニア人にはかなり不自然です。英語と同じくアルメニア語も、「先生は私を叱った」とか「上司は私を褒めた」というように、普通は行為者を主体にして言うからです。
まあ、「叱る」「褒める」などを自動詞の形にして、受動的な表現にできなくもないんですけど、アルメニア人にはかなり変な文章になってしまうので誰も使いません。しかし、逆に日本人にとっては、「先生は私を叱った」という文章は少し変ですよね。何が変かというと、話者の感情が表現されていないからだと思います。
だって、子供が帰宅して泣きながら言うとしたら、やっぱり「先生に叱られた~」でしょ。「先生は叱った」だと、何があったかという状況を伝えるだけで、話者の被害意識は伝えられません。ただ受動的に言い換えるために受身を使っているのではなく、話者の感情表現が目的であることは、「僕は母に漫画を捨てられた」などの文章からもよく分かります。主体は漫画ではなく、感情を持った人間になっていますよね。
もちろん受身の使用は他の言語でも見られますが、日本語の場合、その使用範囲の広さが大変ユニークです。たとえば、「雨に降られた」とか「父に死なれた」など、どうしようもない状況にまで受身を使って話者の感情を反映させようとします。こうなってくると、もう訳が分からなくなるのか、ポカーンとしてしまう学生もいます。
さらに日本語には、「~させられる」などの使役受身という独特の表現があります。使役表現は他の言語にも普通に見られますが、日本語の場合、それを受身の形にして話者の感情を表現しようとするのです。また使役表現は時々、「許可を与える」というような意味でも使われ、その場合日本人はちゃんと、「母は好きなことをさせてくれた」というように感謝を表す言い方に切り変えます。徹底してるなあ…
同じ状況でも、人によって受け止め方は異なり、抱く感情も違ってきます。その感情の機微をできる限り伝えようとする日本語の特徴が、「受身の多用」によく表れています。アルメニア人学習者にとっては難しい文法ですが、同時に日本語の面白さを感じてもらえる部分でもあるので、私は受身を教えるのが好きです。
またまた長くなってしまいました…今後も時々こうやって自分なりの日本語論を書くつもりです。普段何気なく使っている日本語ですが、「そういう特徴があるのかあ」と思って読んで頂けると幸いです。
息子は私に叱られた時、アルメニア語で「パパが叱った~」と言うんですが、将来ちゃんと日本語の受身を使えるようになるんでしょうかね…
- [2016/05/24 19:53]
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