オバマ大統領の広島訪問で思うこと 

昨日5月28日は、「1918年の共和国の日」というアルメニアの祝日。1918年から1920年まで存在したアルメニア民主共和国の独立記念日でした。でも、私はまた映画撮影にアジア人ビジネスマンとして参加してきました。今回はホレン・レヴォニャンという有名な俳優と共演しました。

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演技をするホレン・レヴォニャン。すごく背の高い人でした。

さて、日本でサミットが開かれていましたね。そのサミットに参加していたオバマ氏が現職米大統領として初めて広島を訪れました。日本側から謝罪を求めないし、アメリカ側も謝罪はしないという方針の下で実現した歴史的訪問。どこかやるせない気持ちがありつつも、今回はそれで良かったのではないか…という気がします。

いくら謝罪を求めても、たとえオバマ氏個人は愚かな過ちだったと思っていたとしても、大統領の立場で原爆投下について謝罪を述べられることはまずあり得ません。アメリカではずっと、「原爆は戦争を早期に終結させ、多くの米兵の命を救った」と肯定的に語られていますからね。でも、最近は若い世代を中心に原爆投下に対して懐疑的な考えを持つアメリカ人が増えているそうです。

私も、原爆投下は決して必要ではなかったし、数万人の非戦闘員の命を奪った非道な行為だと思っています。しかし、もし謝罪に拘っていたら、オバマ氏の訪問自体が実現しなかったかもしれません。現職米大統領が現地を公式訪問し、被爆者との面会や道義的責任について言及があったことは着実な進歩だったと思います。

このことについて、昨日学生から、「なぜ日本はアメリカに謝罪を求めないのか?」と聞かれました。虐殺の歴史を巡ってトルコと対立しているアルメニア人にとっては理解に苦しむ部分があるのでしょう。私も別に、アメリカは謝罪する必要などないと思っている訳ではありません。ただ、現状では求めたところでアメリカは応じないだろうし、何も前進しない気がするのです。

同じような質問は、過去にも学生から受けたことがあります。コロンビアやフィリピンでもそうでした。その時に私はいつもこう話します。「戦争では理不尽で残虐なことが起こるし、その善悪や功罪はいつも勝者が作ってしまう。でも、日本は負けてからずっと戦争をしなかった。直接どこかの戦争に関わることもなかった。それは勝って得るものより、もっと大きいと思う」と…

戦争に勝って、原爆投下を肯定し続けるアメリカは、今もなお世界のどこかに争いの種をまき、戦場に軍隊や武器を送っています。そして、その度に多くの無辜の市民が殺され、若い兵士の命が失われています。反対に、原爆を落とされて戦争に負けた日本は、国民が誰一人戦争で殺し殺されることのない平和を守り続けています。

謝罪の言葉こそなかったですが、オバマ大統領は、悲惨な歴史の反省に立ち、核廃絶や平和の大切さを何度も訴えました。このメッセージが偽善で終わってほしくはありません。記念すべき広島訪問が、争いのない世界への大きな一歩になることを切に願います。

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いつも癒される息子の寝顔。そんな何気ない幸せを、原爆は何万もの人々から一瞬にして奪い去ってしまいました。同じ悲劇が二度と繰り返されないことを祈ります。

なぜ日本語は受身を多用するのか 

昨日の午後、急に天気が崩れて、30分ほど台風のような強い風が吹き荒れました。幸い授業中で屋内にいたのですが、凄まじい風と雨を見て、「次の授業先に行けるんやろか…」と少し不安になりました。でも、すぐに収まって、その後は晴れ間が広がりました。

さて、「これから時々日本語に対する自分なりの考えなどを紹介していきたい」と、前回の記事に書きましたが、私が特に関心を持つ日本語の特徴は、話者の感情表現に重きを置いている点です。これが関係している文法はいろいろありますが、最も端的に表れているものの一つに、「受身の多用」があります。

たとえば日本語では、「先生に叱られた」とか「上司に褒められた」とか言いますよね。日本人にはごく自然な表現ですが、アルメニア人にはかなり不自然です。英語と同じくアルメニア語も、「先生は私を叱った」とか「上司は私を褒めた」というように、普通は行為者を主体にして言うからです。

まあ、「叱る」「褒める」などを自動詞の形にして、受動的な表現にできなくもないんですけど、アルメニア人にはかなり変な文章になってしまうので誰も使いません。しかし、逆に日本人にとっては、「先生は私を叱った」という文章は少し変ですよね。何が変かというと、話者の感情が表現されていないからだと思います。

だって、子供が帰宅して泣きながら言うとしたら、やっぱり「先生に叱られた~」でしょ。「先生は叱った」だと、何があったかという状況を伝えるだけで、話者の被害意識は伝えられません。ただ受動的に言い換えるために受身を使っているのではなく、話者の感情表現が目的であることは、「僕は母に漫画を捨てられた」などの文章からもよく分かります。主体は漫画ではなく、感情を持った人間になっていますよね。

もちろん受身の使用は他の言語でも見られますが、日本語の場合、その使用範囲の広さが大変ユニークです。たとえば、「雨に降られた」とか「父に死なれた」など、どうしようもない状況にまで受身を使って話者の感情を反映させようとします。こうなってくると、もう訳が分からなくなるのか、ポカーンとしてしまう学生もいます。

さらに日本語には、「~させられる」などの使役受身という独特の表現があります。使役表現は他の言語にも普通に見られますが、日本語の場合、それを受身の形にして話者の感情を表現しようとするのです。また使役表現は時々、「許可を与える」というような意味でも使われ、その場合日本人はちゃんと、「母は好きなことをさせてくれた」というように感謝を表す言い方に切り変えます。徹底してるなあ…

同じ状況でも、人によって受け止め方は異なり、抱く感情も違ってきます。その感情の機微をできる限り伝えようとする日本語の特徴が、「受身の多用」によく表れています。アルメニア人学習者にとっては難しい文法ですが、同時に日本語の面白さを感じてもらえる部分でもあるので、私は受身を教えるのが好きです。

またまた長くなってしまいました…今後も時々こうやって自分なりの日本語論を書くつもりです。普段何気なく使っている日本語ですが、「そういう特徴があるのかあ」と思って読んで頂けると幸いです。

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息子は私に叱られた時、アルメニア語で「パパが叱った~」と言うんですが、将来ちゃんと日本語の受身を使えるようになるんでしょうかね…

私が考える日本語の特徴 

昨晩は雨がけっこう降りましたが、今日は朝から快晴。すっかり初夏の陽気で、多くの市民がTシャツなど薄着をしています。

さて、私は日本語教師を10年以上やっています。南米を旅行中に偶然コロンビアで仕事の誘いを受けたことがきっかけでした。当時はどちらかというと、海外に住んでみたいという好奇心の方が強かった気がしますが、結局それ以来ずっと日本語を教え続けています。収入面などで苦労が多くても、この仕事が気に入っています。

ある程度長くやっていると、自分なりに日本語について深く考えたり気づいたりすることがいろいろあります。なんせ日本語は相当ユニークな言語ですからね。先日それについて我が家にご滞在中の剣道の先生にお話したら、すごく興味を持って下さって、「面白いからブログにも書いてみたら?」と仰いました。

ということで、自分なりの日本語論を、アルメニアでの経験を交えながら時々ブログに書いていこうかと思っています。あくまで私個人の見解なので実際には間違っている部分もあるかもしれませんが、「そういう捉え方もあるのだなあ」という風に読んで頂ければ幸いです。

言語を学ぶ上で難しいのは、自分の母語と異なる独特の文字や文法。たとえば、漢字や複雑な助数詞などは、いつも学生たちにとって勉強が大変ですし、教える側だって同じです。まあ、全く違う言語と割り切って覚えてもらうしかありません。

教えている中で、私が興味深いと感じる日本語の特徴の一つは、言語使用の最も重要な目的が他の多くの言語と異なる点です。人が言語を使う主な目的は、状況を説明したり、意見や情報を伝達・共有したり、感情を表現したりすることですが、日本語は話者の感情表現に重きを置いている気がするのです。

たとえば、受身形の多用、「くれる」という授受動詞の存在、義務を否定文、不必要を肯定文で表すなどは、ただ状況を説明するだけでなく、話者の感情をなるべく伝えようとする日本語の特徴的な表現です。では、なぜ日本人はこれだけ感情を伝えることに拘るのか…それは、人の感情は複雑で理解も表現もしきれないという価値観が根底にあるからだと思います。

矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、たとえば日本人は、他者の感情については「~そうだ」などを使って断定することを避けますよね。感情というのは本人しか分からない複雑なものだからです。その機微をできる限り伝えようとするために、独特かつ多様な表現が生まれたのではないでしょうか。また、この価値観は言語だけでなく、日本の伝統文化や日本人の行動様式・習慣などにも深く関係しているように思います。

今回は大まかな話だけで長くなってしまいました…具体的なことは、これから時々ブログで書いていきたいと思います。

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今回のテーマと関係ありませんが、息子の寝顔。日本語とアルメニア語という全く異なる言語を上手に使いこなせるようになるでしょうか…

ユーロビジョンでウクライナ代表が優勝 

天候は少し不安定なままですが、気温は確実に上がっています。もう長袖のシャツだけで大丈夫なほどになってきました。これから次第に暑くなっていくでしょうね。

さて、先週末にスウェーデンのストックホルムで、ユーロビジョン・ソングコンテスト2016が開催されました。アルメニアも毎年参加しています。今年のアルメニア代表は、イヴェタ・ムクチャン。小さい頃にドイツに移住した彼女は、現在アルメニアでも歌手やモデル活動を行っています。

スタイルの良さを活かして、セクシーな衣装を着て歌いました。お色気が強調されていましたが、歌も上手でした。結果は7位に終わりましたが、昨年の16位より高評価を得て健闘しました。

今年の優勝者はウクライナ代表の歌手ジャマラ。彼女の「1944」という歌は、1944年にソ連が行ったクリミア半島のタタール人追放がテーマ。というのも、彼女自身が強制追放されたクリミア半島のタタール人の血を引いているのです。ちなみに母親はアルメニア人だそうです。

ここ数年のクリミアの状況を考えると、かなり痛烈なロシア批判とも取れる歌ですが、政治的な内容の歌を避けるというコンテストのルールには抵触しないと判断されました。そして、結果はロシアをおさえての優勝。音楽の祭典とはいえ、主催は欧州なので、どこか政治的意図を感じざるを得ませんね。

チープなポップソングばかりだし、ほとんどの歌手は母語ではなく英語で歌うから民族色もないし、私は元々この音楽祭に関心がありません。でも、優勝国のウクライナで開催される来年のユーロビジョンは一体どうなるのか…少し注目しています。


イヴェタ・ムクチャンのパフォーマンス。


優勝に輝いたジャマラのパフォーマンス。


私の学生たちに人気があったのは、オーストラリア代表の韓国系女性の歌手でした。結果は2位でしたが、私もこちらの方がいいと思います。

アルメニア日本語教師会の集まり 

最近また天気の良くない日が続いていて、少し肌寒いです。もう5月中旬になるというのに、なかなか暖かくなりません。

さて、月曜は対独戦勝記念日で祝日でしたが、お昼にアルメニア日本語教師会の集まりがあったので、妻と子供を連れて行ってきました。場所は、会長のカリネ先生のお宅。カリネ先生の手料理を食べながら話しましょうという趣旨です。

カリネ先生は、アルメニアで最初に日本語を教え始めた方で、ここの日本語教育の基礎を作られた偉大な先生です。ここで日本語を学んでいたり、日本語を使って仕事をしていたりという人たちの元を辿っていくと、大体カリネ先生に繋がりますからね。今も熱心に日本語教育に関わっていらっしゃる姿には、本当に頭が下がります。

1年半前に日本大使館が開設され、田口大使も日本語・日本文化普及活動への協力を惜しまない方なので、今年はいろいろと発展がありそうです。それで、今後のことをみんなで話し合うことになったのです。

大使館職員の方から説明を聞いて、質疑応答や意見交換などをしました。そして、お待ちかねの食事!カリネ先生はとても料理上手でいらっしゃるんですが、今回もどれも本当に美味しかったです。甘いものをあまり食べない私が、デザートのケーキを二つも口に運んでしまいました。

祝日のお昼に楽しい時間を過ごすことができました。カリネ先生、どうもありがとうございました!みんなで協力して、アルメニアの日本語教育発展のために頑張りたいと思います。

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カリネ先生の美味しい手料理をご馳走になりながら、会話にも花が咲きました。アレンも美味しそうに食べていました。