グルジア料理 

グルジア料理といっても、一体どんなものか想像できないと思います。実は、私はアルメニア料理よりグルジア料理が好きなんです。アルメニア料理もとても美味しいのですが、グルジア料理の方がスパイスが効いていて私好みの味です。コーカサス地方はワインの発祥地と言われていて、グルジア・ワインはとても美味しいです。

来月グルジアへ行ったら、食事も楽しんでくるつもりですが(といっても安食堂で…)、いくつかのグルジア料理はアルメニアでも一般的に食されています。グルジア料理のレストランもありますし、「グルジア料理が好き」と言うアルメニア人もよくいます。

アルメニアでも食されている代表的なグルジア料理を紹介いたします。

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ハチャプリという、最も代表的なグルジア料理。チーズを混ぜて焼いたパイです。写真は卵をのせたものですが、他にハムなどをのせたものもあります。アルメニアでもポピュラーな料理です。


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ヒンカリという料理。中に肉のミンチを入れて蒸したもので、グルジアの水餃子。恐らくアジアの方から伝わったのでしょう。中に詰まった肉汁をすすってから食べます。

これらはアルメニア人もよく食べますし、美味しいので私も大好きです。アルメニアに来られた際は、アルメニア料理の他にグルジア料理もお試しください。

グルジアの学生たち 

来月のグルジア訪問ですが、学生たちとの再会も楽しみです。グルジアには日本語学科が設置された大学があり、そこで勉強している学生たちがいます。4年前、私はその学生やグルジア人教師と仲良くなり、今も連絡を取り合っています。

グルジアも日本人がほとんどいないので、日本語を勉強していても使う機会はありません。だから学生たちにとって、私と過ごす時間は日本語を話す貴重なチャンスなのです。私と一緒にいる時はいつも楽しそうですし、彼らの笑顔を見ているとこちらも嬉しくなります。

アルメニア同様に、日本との交流がほとんどないグルジアですが、昨年トビリシに日本大使館ができました。これで、コーカサス地方で日本大使館がないのはアルメニアだけです。学生にも時々「日本大使館はいつできますか?」と聞かれますが、国益がないので当分その予定はありません。

しかし、もうすぐ日本にアルメニア大使館が開設されるという話を聞きました。グルジアに日本大使館ができたのは、先にグルジアが日本に大使館を開設したということがあったからだそうです。日本にアルメニア大使館ができれば、いずれアルメニアにも待望の日本大使館ができるのではないでしょうか…

現在アルメニアを管轄しているのは在モスクワ日本大使館で、ビザを取るにしても、アルメニア人はいちいちモスクワに問い合わさなくてはいけません。エレバンに日本大使館ができれば、そんな手間も軽減されますし、日本がもっと身近に感じられるのではないでしょうか…

と書いている私は、日本大使館もない国だからこそ、敢えてアルメニアで頑張っているんですが…でも、ここで日本語を勉強している学生たちのためにも、早く日本大使館が開設されればと思っています。

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グルジアの学生たち。左は4年前の写真。学生の家に遊びに行きました。食事をご馳走になって、お土産までもらいました。右は去年の写真。既に大学を卒業して働いていましたが、一生懸命日本語を話そうとしていました。

グルジアの大切な友人 

アルメニアのビザが切れるので来月グルジアへ行きますが、友人たちとも再会してきます。その中に、とても大切な友人がいます。10年前の旅で知り合い、今もグルジアへ行く度に会います。彼は私より20歳上の男性で、何と誕生日が同じ。不思議な縁を感じますし、何より私という人間を変えてくれた恩人です。

10年前の私は、結婚や家族というものに否定的な考えを持っていました。子供の頃に両親の不仲を見ていて、「結婚して家族を持っても幸せになんかなれない。自分は絶対に結婚なんかしたくない」と思うようになったのです。しかし、旅行中いろいろな国で家族が寄り添い助け合っている姿を見るにつけ、そんな気持ちが揺らぐのを感じてはいました。

当時彼は失業中でしたが、家族がいました。ずっと船乗りだった彼にとって、40を過ぎてから初めて持った家族。奥さんは再婚で13歳の娘がいました。また二人の間には生まれたばかりの赤ちゃんがいました。養わなくてはいけない家族がいるのに、国の独立と共に仕事を失い、彼は辛い日々を過ごしていたと思います。当時のグルジアは、そんな人がたくさんいました。

しかし家族はとても仲がよく、彼は生まれたばかりの娘さんを溺愛していました。抱き上げては、「これは俺の宝物。俺の全てだ」と顔をほころばせていました。その姿を見ていると、こちらも幸せな気持ちになり、家族って素晴らしいなと思い始めました。毎日のように彼の家に遊びに行きましたが、いつも心が温かくなっていました。

最後の夜、地下鉄の駅まで見送ってくれ彼が、「独立してから、多くの人が仕事を失い貧しくなった。ソ連時代の方がいいと言う人もいる。でも、ここはロシアじゃなくグルジアだ。俺たちの文化と歴史がある。やはり独立して良かった。今は辛くても、いつも神様が見守ってくれている。何より、俺には自分を支えてくれる家族がいる」と言いました。

その言葉を聞いたとき、自然に涙が溢れてきました。私が旅で探していたのは、こんな人間の愛情や繋がりだったんじゃないかと気づいたのです。そして、自分もいつか彼のように素晴らしい家族を持ちたいと思えるようになりました。「家族や結婚なんて信じられない」と意地を張っていた自分の中で、大きな変化が起こったのが分かりました。

まだ私は結婚していませんが、それ以来結婚や家族というものに否定的な考えを持つことはありません。10年経った今も、彼の家族はいつも私を温かく迎えてくれます。自分を変えてくれた大切な友人との再会を心待ちにしています。
 
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左は10年前の写真。写っている女の子は奥さんの連れ子ですが、彼は自分の娘として大切にしていました。右は4年前の写真。10年前赤ちゃんだった娘さんは、可愛らしい女の子に成長していました。とても明るくて素直ないい子です。

彼との出会いのエピソード記事

戦争から1年 

そういえば、昨年のグルジア訪問の様子を全く報告していませんでした。来月また行くので、少し振り返りたいと思います。

昨年グルジアへ行ったのは8月で、ロシアとの戦争からちょうど1年経った時でした。2008年北京オリンピック開催と同時に勃発したロシアとの戦争。私はフィリピンにいた上に、オリンピックの報道ばかりで、あまり詳しいことが分かりませんでした。しかし友人たちがいるので、ロシア軍がグルジア国内にまで攻め込んできた時はとても心配しました。

結局ロシア圧勝のまま戦争は短期間で終結し、昨年にはグルジアは完全に落ち着きを取り戻していました。テレビ報道は刺激的な映像ばかり流す傾向があるので、首都トビリシは戦争中も意外と普通だったのかなと思いましたが、友人の話では、何度も爆撃音が聞こえて怖かったそうです。

あれから1年ということで、広場には戦争の写真が展示されていました。当然ですが、100%グルジア側から見た戦争写真です。ロシア軍の攻撃によって、亡くなった人や怪我をした人々、家や家族をなくして泣き叫ぶ人々、必死で戦うグルジア兵など生々しい写真ばかり・・・特に血を流す子供の姿には、強く胸を打たれました。

戦争一周忌に当たる8月8日は、グルジア国旗を持った人を多く見かけました。国旗を振りかざしながら車で走る人達もいました。広場では、写真の他にテレビ画面でも当時の様子が流されていて、人々がそれに見入っていました。夜には、政府主催の大きなセレモニーも行われたようです。とにかくロシアに対する憎悪とナショナリズムが高揚していました。外国人の私は、少し怖い感じがしましたが…

戦争の原因は複雑です。先に仕掛けたのはグルジアですが、火種である南オセチアの独立問題は、ソ連時代の負の遺産(こちら)。アルメニアとアゼルバイジャンの領土問題と似ています。期待していたアメリカの支援を得られなかったグルジアが負けましたが、今もこの火種はくすぶり続けています。

終わりが見えない問題だけに、余計あの戦争は無意味で悲惨なものだったと感じます。どういう結末でも、不幸になる人達がいるわけですから…ある友人の言葉がとても印象的でした。「戦争でまた多くの若者が亡くなった。戦争は何の意味もない。ただ人を不幸にするだけだ…」

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広場に展示されていた写真に見入る人々。戦争の悲惨さを生々しく伝える写真ばかりでした。グルジア人は、再びロシアに強い怒りを感じたでしょう。私は、政府によるプロパガンダの匂いを少し感じざるを得ませんでしたが…

スターリンの銅像 

今日はグルジアの話題。アルメニア・ビザがもうすぐ切れるため、来月グルジアへ行かなければなりません。友人たちと会ったりするので、1週間ほど滞在すると思います。昨年夏もグルジアへ行きましたが、その時ゴリという町を訪問しました。そこでスターリンの銅像を見るためです。

スターリンはグルジア人で、本名はヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。ソ連で30年も権力を欲しいままにした独裁者が、実はグルジア人であったことを知る日本人は少ないかもしれませんね。彼が悪しき独裁者として公に認識されるようになったのは、フルシチョフによるスターリン批判に始まります。

しかし、第二次世界大戦でソ連を勝利に導き、アメリカに匹敵する大国に押し上げた人物という意見もあります。いまだに評価が分かれているため、先日のロシアの戦勝記念日でも、パレードでスターリンの肖像を掲げるかどうか問題になったそうです。彼の悪行として有名なのが、人為的な大飢饉で(こちら)、ウクライナの友人は心底スターリンを嫌っていました。

旧ソ連邦の至る所に建っていたスターリン像ですが、今はほとんど撤去されています。アルメニアにも全くありませんが、グルジアのある場所には残されています。それが彼の生まれ故郷ゴリ。銅像の他、彼の生家跡には博物館まで作られています。実際ゴリには、スターリンを地元の英雄として考える人が多いそうです。

私は博物館には行きませんでしたが、今では珍しいスターリン像は見てきました。大きな広場の中心に建つスターリン像は立派でしたが、その立派さも、今となっては少し滑稽な感じがしました。一昨年の戦争では、ロシア軍はこのゴリまで攻めてきました。まるでロシアがスターリンの故郷を奪い返そうとしているかのようでした。

あの戦争以来、グルジアとロシアの関係は悪化したままです。そう言えば、ゴリ~トビリシ間の道路にある電子掲示板に、「ロシア軍は通行禁止!」という表示が出るのを見ました。道の横の草原には、戦争で家を失った人達のために政府が建てた仮設住宅をいくつも見ました。今年は何も起こらなければいいのですが…

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ゴリの広場に建つスターリン像。高い台座の上に建つ立派な銅像です。実際のスターリンは背が低かったそうですが、銅像は威風堂々としていました。ゴリの町自体は、スターリンの故郷という以外は何もない所。