図書資料、第一弾発送! 

先週の日曜、「アルメニアに本を送る会」の日本の役員の方々が、寄贈された図書資料を選別し、アルメニアに発送して下さいました。絵本や教材、辞書など、優先順位が高いものを選び、SAL便で送って下さいました。その量、17箱で200kg以上!第一弾の発送としては、かなりの量です。役員の方々にとっては重労働だったようですから、本当にお疲れ様でした。

しかも、まだ同じぐらいの量の寄贈図書が残っているとのこと。たくさんのご協力、誠にありがとうございました。第二弾の発送は、9月を予定しています。今後も、図書資料の寄贈、どうぞ宜しくお願い致します。アルメニアの学生と話すと、世界で人気のある日本のアニメや漫画をほとんど見たことがないようです。その方面での図書資料がございましたら、助かります。CDやDVD、写真などの視聴覚資料も、学生はとても喜びます。

また、やはりアルメニアへの発送は高額で、第一弾の送料は20万円以上もかかったようです。せっかく寄贈された図書資料も、こちらへ送る資金がなければ意味がありません。経済的なご支援の方も、どうぞ宜しくお願い致します。

とにかく、多くの方々のご協力のお陰で、第一弾の発送までこぎつけました。「アルメニアに本を送る会」にとって、最初の大きなスタートを切ることができたように思います。後は、本が無事にアルメニアに届くことを祈るのみです。

皆さん、本当に有難うございました。今後とも、どうぞ宜しくお願い致します!

アルメニアに本を送る会HP http://bookarmenia.web.fc2.com/

アルメニア人のホスピタリティー 

ナゴルノ・カラバフのバスは、行きも帰りも昼食休憩を取りました。食堂で食べる人、持参したものを食べる人、いろいろですが、私はいつもアルメニア人にご馳走になりました。

行きの時は、食堂で席に付いたら、隣のテーブルのおじさんが、「一人なら、こっちで一緒に食べよう」と声を掛けてきました。簡単なロシア語で会話をしつつ、一緒に食事をしました。昼間から彼はウォッカを注文して、それも一緒に飲みましたが、支払いは彼が全てしてくれました。

帰りの時は、4人の女性が、「こっちに来て一緒に食べよう」と声を掛けてきました。また簡単なロシア語で会話をしながら、一緒に食事をしました。さすがに女性なので、お酒は注文しなかったですが、やはり支払いは彼女たちがしてくれました。

これは、9年前や3年前にアルメニアを旅行した時も同じです。移動中の食事の時は、いつも誰かが声を掛けてきて、一緒に食べます。そして、いつも向こうの驕りです。大した金額ではないですが、彼らは当然のようにそうやって親切にしてくれます。こちらがその親切を当然と思ってはいけませんが、アルメニア人のホスピタリティ-があまり変わっていないのは嬉しかったです。

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エレバンに戻る途中、昼食に誘ってくれたアルメニア人たち。外国人が珍しいということもあるんでしょうけど、気さくに声を掛けてくれて、「遠慮せずに食べて」ともてなしてくれるのは、異国にいる者にとって嬉しいものです。

ステパナケルトでの出来事 

ステパナケルトでは民泊をしました。1泊1000ドラム(2.8$)と格安ですが、シャワーなどはありません。それは大丈夫なんですが、そこのお婆さんが、お金にうるさくて大変でした。朝「コーヒーかチャイ、どっちがいい?」と聞くので、コーヒーを入れてもらうと、「はい、200ドラム」。まさかお金を取るとは…しかも喫茶店と同じ値段。

また初日に、お婆さんは「洗濯してあげるから服を出して」と言うので、断ると、「いいから、出して!」とロシア語で捲くし立てます。仕方なく服を渡して、翌日に「洗濯した服は?」と聞くと、お婆さんは「それは明日」。しかし、私は明朝にエレバンへ帰ります。それを言っても、「明日、アイロンもかけて渡すから!」と答えるだけです。

さて翌朝、庭に出ると、なんと私の服がまだ濡れた状態で干してありました。今日の朝出ると言ったのに、さっき洗濯したようです。もう怒っても仕方ないので、濡れた服をナイロン袋に入れて立ち去ろうとすると、お婆さんは洗濯料として500ドラムを要求してきました。さすがに呆れて、「こんなに濡れているのに、お金なんか払えるか!」と怒ると、お婆さんも、「分かった。分かった。」と諦めました。

最後に嫌な思いをしましたが、お婆さんが少し可哀相にもなりました。ソ連時代の社会保障がない今、アルメニアの年金は10$ほど聞いたことがあります。お婆さんが民泊を経営をしているのも、お金に汚くなってしまったのも、全ては生活が大変だからでしょう。それに、正にこの場所で戦争を体験した世代でもあります。私には分からない辛い人生を送ってきたんだろうなあ…エレバンへ向かうバスに揺られながら、そんなことを考えました。
 

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ステパナケルト郊外にも残る廃墟。街はかなり再建されていますが、まだ戦争の傷跡が残っています。 

シューシ 

ステパナケルトから、バスで20分ほど走った所にある、シューシという町にも行きました。歴史のある古い町ですが、戦争で徹底的に破壊されてしまったそうで、私はその戦争の傷跡を見に行きました。

しかし、けっこう再建が進んでいて、一見のどかな普通の田舎町です。町の中心部には、立派な教会もあります。「なんだ…」と肩透かしをくらったようでしたが、まだ郊外にはボロボロの建物がたくさんありました。戦車などは見ませんでしたが、それらの廃墟を見るだけで、戦争の激しさと悲惨さを感じるには十分でした。

シューシはとても小さな町なので、1時間ほどで全部見て周り、帰りのバスを待っていたら、子供たちが声をかけてきました。ロシア語で、「どこから来たの?」「名前は?」と、いろいろ聞かれました。外国人が珍しいのでしょう。バスが来ると、「このバスだね。じゃ、バイバーイ!」と、無邪気に手を振って去っていきました。

ナゴルノ・カラバフの領土問題は、まだ解決していません。アゼルバイジャンとは、今も国交を断絶しています。徴兵制があり、私の友人も去年から軍隊にいます。アルメニアには、まだ完全な平和が訪れていないのです。しかし、無垢で可愛い子供たちのためにも、再び戦争という過ちだけは犯してほしくないと思います。

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町の中心には、写真のような立派な教会がありました。工事をしていたので、破壊は免れなかったはず。中心から少し離れると、まだ廃墟が残っていました。右の写真の廃墟は、ミナレットがあるのでアゼルバイジャン系住民のモスクだったんでしょう。もうアゼルバイジャン系住民は残っていないので、廃墟のまま…

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郊外の小さな教会裏にも、廃墟が…声を掛けてきた子供たちは、本当に無邪気で可愛かったです。無辜の子供たちが苦しまないよう、再び戦争だけは起こってほしくないです。

ステパナケルト 

昨日、ナゴルノ・カラバフ共和国から帰りました。2泊3日の旅で、首都ステパナケルトとシューシという町に行ってきました。朝9時半にバスでエレバンを出て、途中30分ほどの昼食休憩を取り、午後2時にナルゴノ・カラバフ国境に到着。アルメニア人はパスポートもビザも不要なので、私だけパスポートチェック。事前にビザは取っているので、5分ほどで終わりました。その後また2時間ほど走り、4時頃にステパナケルトに到着。

首都のステパナケルトは、普通の町でした。メインストリートには、店が建ち並び、タクシーやミニバスもけっこう走っています。20年前に激しい戦争があったとは思えないほとです。人々は親切で、安食堂を探していると、タクシーの運転手がタダで送ってくれたりもしました。

アルメニア同様に治安も良く、夜暗くなってから町歩きしていても、危険な雰囲気は全くありません。 珍しがって、若者が「ハロー」とか「ジャッキー・チェン」とか言ってくるぐらいです。

独自の通貨はないので、アルメニア・ドラムを使います。売っているものも、物価もほぼ同じ。ステパナケルトは、ただのアルメニアの一都市という印象でしたが、政府の建物には、ちゃんとナゴルノ・カラバフ国旗が立てられているので、それを見る度に、一応は別国家なんだと感じました。

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左は、大統領府。事実上アルメニアの領土ですが、独自の国旗も、国歌も、憲法もあり、大統領もいます。右は、そのナゴルノ・カラバフ国旗(中央)。右のアルメニア国旗とほとんど同じです。

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左は、ステパナケルト郊外にある「我らの山」という記念碑。老いた男女の姿で、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人を象徴しているそうです。右は、 歴史博物館。無料の上に、英語の上手なガイドが説明してくれます。やはり、アルメニア側から見た歴史でしたが…

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ステパナケルトのケバブ屋。肉屋とケバブ屋が並ぶ通りがあって、そこでよく食べました。焼いたケバブを、ラバッシュという薄いパンで、野菜と一緒に巻いて食べます。アルメニアのファースト・フード。右は、立派な水飲み場。天然の湧き水で、冷たくて美味しい。